丸の内リーマンショック

ビジネス・スポーツ・働き方・教育・音楽 の5.0

190115 ナンバーより 花巻東育成メソッドと6年間の物語

短期的な勝利至上主義は、いいことなし。指導者は、誰の・何の為に、その立場にいるのか。

 

https://number.bunshun.jp/articles/-/833166?page=3


動の菊池、静の大谷。
「動の菊池」に対し、自らの感情をコントロールできる彼を、佐々木は「静の大谷」と評したことがあった。
 ただ、表現する言葉こそ違えど、大谷を育てる上では「雄星の存在が大きく影響していた」と佐々木は断言する。
「我々としては、雄星という参考書で大谷を育てることができました。これぐらいの筋力がついたら、これだけのスピードになるというザックリとした計算でしたが、普通に考えれば、いずれは大谷が高校の時点で160kmを出すと思えました。
 そのためにも、大谷には『雄星さんのようになりたい、という考えは持たないように』と言いました。誰かみたいになりたい、という考えではその人を上回ることはできない。超えたい、と思わなければダメなんだと」
 大谷は「163キロ」という数字を書いた。それは160kmを出したいと思うのであれば、それ以上を目指さなければならないという意味でもある。
「160km」が大きな目標に。
 そして、佐々木は常に「目標には具体的な数字がないといけないし、計画がなければ目標とは言えない」とも言う。大谷にもその言葉を何度となく投げかけた。
「ピッチャーとしての大谷にとって、160kmという数字が大きな目標になったと思いますし、その目標が大谷を引っ張ってくれたと思います」
 高校野球の約2年半というスパンを見据え、大谷の育成プランは慎重に練られた。入学時点ですでに190手足、リーチの長さは武器。
「手足の長さ、特にリーチの長さはスピードボールを投げるための絶対条件です。また、大谷は雄星と同じく関節の可動域の広さ、股関節や肩甲骨の柔らかさといった、親御さんから授かった素質も持っていました。それだけに、入学直後でも試合で投げれば、ある程度の結果はついてきたと思います。でも、1年夏まではピッチャーとして使わなかった。
 徐々に段階を踏んで、一歩一歩登るように。体とピッチャーとしての成長、そして人間的な成長が、それぞれにゆっくりとした曲線を描きながら上がっていくように。まずは体と心の育成をじっくりとやっていこうと決めました」
大谷を壊すわけにはいかない。
 高校2年夏の岩手県大会直前、大谷は骨端線損傷という高校時代で唯一にして最大の怪我と直面した。右翼手として出場した甲子園では、1回戦の帝京戦でリリーフ登板し、当時の2年生の最速タイとなる150kmを出した。それでも、彼の将来を考えれば無理はさせられない。翌年までピッチングは封印された。
 実際には、わずかなイニングなら投げられただろう。センバツ出場がかかった2年秋の東北大会準決勝。光星学院(現・八戸学院光星)に8対9で敗れたその試合、力が拮抗するゲーム展開で、終盤に大谷がマウンドに上がっていれば勝利の可能性は十分にあった。
 それでも、佐々木は我慢した。
「大谷のゴールはここではない。翌年の夏の勝利のためにも、ここで大谷を壊すわけにはいかないと思いました」
 そんな恩師について、かつて大谷はこう語ったことがある。
「佐々木監督はチームの勝利を目指すなかで『今じゃない』『早熟する必要はない』と、そんな話もしながら個人として最後はどこまで伸びていけるかということを常に考えてくれました。ウエイトトレーニングにしても、上半身をガンガン鍛えることはなく、下半身の基礎作りだけをとにかく頑張ってやりました。それもまた、僕にとってはよかった」
cm近かった身長は、まだ成長段階にあった。チームの勝利を考えつつ、選手の成長を見守らなければいけない指導者としての悩みが佐々木にはあった。
 縦に伸び続ける体は、過度の負荷をかければ怪我をする危険性をはらむものだ。それだけに、入学間もない頃は「過度なトレーニングや起用はできない」と佐々木は思った。本音を言えば、喉から手が出るほどに、すぐにでもピッチャーとして試合で使いたかったのだが……


スピードという夢を継承して。
 高校3年の夏。岩手県大会の決勝で涙を飲み、大谷は甲子園出場を逃す。それでも準決勝、一関学院戦で、アマチュア史上最速の160kmを記録した。それは「静の大谷」がピッチャーとしての欲求に流されずに我慢と成長を続けたことへの、野球の神様からの贈り物だったのかもしれない。
 菊池が確立した「スピード」という夢を達成するためのメソッドを、大谷はしっかりと受け継いだのだ。2つの巨星が岩手の地で、絶妙なリレーを遂げたことは奇跡に近い。
 菊池は昨年8月に158kmを、大谷は'16年10月に165kmを記録した。彼らは今、左右の日本球界最速投手として日米のマウンドに立ち続けている。
(Number959号『智将が明かす育成メソッド 源流から大河へ。』より)

181006 ドイツの子どもは審判なしでサッカーをする

・変化を認めること。今がダメなら将来にわたってダメなのか?伸びるかもしれない。環境が合ってないだけかもしれない。

(前出来なかった事が出来る様になったこと)

・学校(勉強)、部活、仕事 に置き換えてもポイントは同じ。

・上司、部下 に置き換えてもポイントは同じ。

・目をかけて貰いたい。

・試合(実戦)機会が大事。

・適切なレベルでやる、step by stepが重要。レベルミスマッチは良いこと無い

・再交代アリは柔軟な人繰りが可

・子供だって考えて行動している

・子供だって努力している

・社会性、学業、スポーツの順

・家族や自身が第一でスポーツは二の次

・スポーツ中のアクシデント、怪我した本人だけでなく双方どちらもケアが必要

(特にメンタル)

・大人自身が子供を尊重すること

・大人も間違えること、完璧でないこと、隠さなくて良い

 

180717 日経朝刊 (公共サービス、郵便局頼みに)

r.nikkei.com


<要約> 


・過疎地の行政サービス窓口や鉄道駅を郵便局に一体化する動き。(郵便局に頼る)
 例:自治体窓口業務、証明書交付、納税事務、見守りサービス、道路損傷や不法投棄の情報提供 
銀行窓口業務、地銀ATM設置、駅窓口業務
・その郵便局の存続に毎年約200億円を事実上投じることが今の通常国会で決定。
・郵便と貯金、保険の3事業は全国あまねく公平に提供する「ユニバーサルサービス」義務。
・ゆう銀とかん生の日本郵便への窓口業務委託料は、今後非課税(郵便網維持のための独行拠出金あつかいにする為)
・(記者意見)行政であれ民間であれ、サービスの提供には費用がかかる、
人口減の続く地方で郵便局網を維持し続ける余力は本当にあるのか、郵政と地方の将来から一時的に目をそらしているにすぎない

 


これは本当に書いてある通りで、
過疎地方を見捨てずに済むプラットフォームに手軽な郵便局を選んだ、という事でしかない。

中途半端な民営化を遂げた日本郵政を経由してやろうとするから矛盾が生じるのでは?

毎年200億円を何年続けるつもりなのか。
例えば15年。幼稚園児は就労年齢になるし、引退直後の人は90歳位(平均寿命±αライン)になる。
とすると総額3,000億円。生半可な額ではない。

 

これだけの額があるなら、過疎地形態のリストラクチャリングとか、
技術(インターネット、シェアリング、既存インフラ)を活用した遠隔支援サービスを構築するとか、
そっちの方が良いんでない?
教育も、病院も、買い物も、手続きも、オンライン+最小限対面で実現できる。
土地も区画整理とかして再エネ・分散グリッドにするとか、社会実験は出来そうな。

 

こういう事を役所や政治家が言うと『切り捨てだ!』とか言われてしまうので、
都合よく企業や自治体が撤退しようとしているのを見ると、いよいよやばい。

エリアに応じて、職住近接/職住分離、地産地消/産消分離をもっと考えないといけない。

 



180709 ラグビーで勝つよりも大切なことがある

business.nikkeibp.co.jp

 

-本文をビジネス視点で書きかえて抜粋

 

「ビジネスが成功する」と「成功し続ける」の間には雲泥の差がある。

偶然勝ち続けることは絶対にできない。

 

 

<劣勢でも心に余裕を持てるようメンタルを鍛える>

その時点で負けていても、社員の表情が生き生きしていた。

ニコニコしている社員もいて、それを見たときに「大丈夫だな」と思いました。

 

ビジネスで先行されるのは、やはりミスが出ているからなんですが、社員たちがどんな心理状態を持ち続けているかがとても大事です。

ポイントは、一喜一憂しない心理状態を保つこと。

 

 

<強さの秘訣は、ビジネス以外のところにある>

当社の強さは、目指しているゴールが他社とは違うという点が大きいと思います。

当社は、ビジネスで成功を収めるよりも大切なことがあり、それをしっかりやらなければならないと教わっている。

大切なことというのは、社会のために、自分や自分の周りの人を幸せにできるような会社であることです。そういった大きなビジョンのなかにビジネスがあるという考え方でやっています。

社員も、人間的に成長できているという実感を持てるので、そこから生まれる精神的な余裕が、実際にビジネスにも反映されていると思います。

心理的な成長と、一人ひとりが常に考え続け、社員間で瞬時に意思疎通できること。そのあたりが、他社とはいまでも違う。そこが強い理由だと思っています。

 

 

<誰かの指示を待つのではなく、自分で考える習慣が身についている>

それはトレーニングの成果なんです。当社には「3人トーク」と呼ばれるミニミーティングがあり、いつでも頻繁に行います。

例えば、仕事中に何かミスがあったとき、いまの状況がどうなっていて、それを修正するにはどうすればいいか、ぱっと3人ひと組になって話し合います。

その際、上司/先輩が後輩社員に質問をして答えてもらうという形式をとるので、考える習慣が身につく。

 

3人トークは、自分の考えをしっかり持ってもらうことが狙いですが、どちらかというと受け身的な方法です。

より能動的に、自分の考えを自分で整理できるように、昨年から選手にSBAR(エスバー)を使ってもらっています。

 

SというのはSituation(状況)、BはBackground(背景)、AはAssessment(評価)、RはRecommendation(提案)。

たとえばトラブルがあって、上司に報告する時のことを想像してみてください。

状況(S)と背景(B)をまず整理し、次の評価(A)で自分なりの見立てをして、最後の提案(R)で何をすべきかについての考えを表明する。

部下がそこまでできるようになると、相談を受けた上司が、正しい判断をより早く下せるようなる。

以前は、SとBを上司に伝えることはできても、それ以降の判断は相手に丸投げ状態でした。

つまり、上司や先輩が主体的になるやり方でしたが、それを少し進化させて、もっと主体的に自分の考えや自律性を身につけてもらうためのアプローチです。

 

 

180704 エネルギー基本計画

略してエネ基。

原発の扱いから目を逸らしているから、こうなる。

非資源国だからこそ、国内エネルギーの確立には火力等が必要なのでは。

再エネ・原発は輸出で海外貢献という訳にはいかないものか。

色々と電力の市場が整備されているものの、

ある種の計画経済でしかなく、そこで活躍できるプレーヤーは限られる。

原発は国が接収しないにしても、

全量、ベースロード市場と非化石市場に供出する事くらい旗振りしないと。

エンロンみたいな外資企業が進出して来ないかなあ。

www.meti.go.jp

 

www.sankeibiz.jp

180621 不安な個人 立ちすくむ国家

 

・情報を人のつながりと誤認識すると生きるのがしんどいのでは。

・子供が大人化した反対に、大人が子供化しているのでは。

・コミュニケーション能力とは何か。幅広い教養、洞察、思考力、多様性への理解度 がもたらす人格のことか。

・最大多数の最大幸福(ベンサム)、乗算による総合幸福度=const.、其々を最大化する事は困難では。

 

ざっくり抜粋。

 

養老孟司

 

-田舎での子育ては「しなければいけない」というのが私の意見。

積極的に田舎で育てるべき。子育てには都会より田舎、というのは感覚的には分かるのですが、私は都会というのは異常な環境だと思っています。

分かりやすい例で言うと、都会にあるこの建物の、この部屋の中には「意味のないもの」は置いていませんよね。

この部屋に、もし意味のないものが置かれていたりしたら、あっという間にゴミとして片づけられてしまう。

一方、山へ行ったら真逆の環境になります。そのへんでミミズは死んでいる、モグラの掘った穴がある。バッタが跳ねている、石ころが転がっている、草は好き放題に生えている。

それらに何か意味があるかと言えば、ありませんよね。

ムダなものを見ない生活、これって、じつはものすごく怖いことです。

五感から入ってくるものが制限されるようになり、代わりに情報で満たされるようになった。

 

 

松下幸之助奨学金を出す、と言ったことについて、激しい議論になったことがありました。

考えてみたら、不思議だと思いませんか? 松下さんは徹底的に貧乏をして、小学校もろくに出ていない人です。

彼が奨学金を是認しているのか、それとも否定しているのか?

 

奨学金を出そうと考えることは、自分の育ってきたプロセスというものを否定していることになりますね。

戦後日本の抱えるもっとも大きな問題の一つだと思っていますが、戦前の日本というものを否定して、戦後の日本を作れるのかという話です。

間違っていたから全部ご破算にして、新たに始めた、なんてことが、僕にはできるとは思えない。

つまり、自分の過去をどのように肯定して、どのように否定しているか、と言い換えても構いません。

 

松下さんにしてみれば、「若い時にもっとお金があれば、今とはぜんぜん違った形で世の中に貢献できたかもしれない」と思っていたのかもしれません。

仮に恵まれた子ども時代を送っていたら、彼の成し遂げたような大きな仕事はできなかったという可能性も否定できない。

こういったことは,後生の人たちが、もっと客観的に考えるべき重要な問題の一つではないでしょうか。

 

 

-この間、広島に行った時、ちょっと海岸に降りてみたのですが、そこでは犬が放されて楽しそうに遊んでいました。とにかく、この犬が幸せそうで、幸せそうで。

一方、僕が虫捕りの集まりで連れていた子どもたちには、親も付いてきていたのですが、

服を着ているし、濡らしたくないしと、まあ海には入れないわけです。そんな彼らを見ていたら、何だかものすごく可哀想に思えてきました。

昔の子どもたちは、もっと思う存分遊ばせてもらえました。なぜなら、かつて子どもは、病気などで今より遥かに死ぬ率が高かったからです。

死なないのが当たり前になってから、子どもがどうなったかというと、「大人予備軍」になってしまったのです。

だから、小学生が自殺したり、中高生が人を殺したりするということが起こるようになった。

あるいは、逆に高齢者が それこそ90代でホスピスに入ってる爺さんが「死にたくない!」と毎日わめいていたりする。

90歳過ぎて「まだ死にたくない」ということは、やりたいことをやれずに来て、後悔しているということでしょ?

 

 

-「社内調整が上手いです」という人、仮にA社において社内調整能力に長けていたとしても、

それがB社でもできるかといえばそうとは限りません。このスキルというのは、

つまるところ「あの人はこういう性格の人だから、こういうタイミングで話を持っていくと通りやすい/通りづらい」というようなことを熟知しているということです。

これは確かに、物事を進める上では非常に大事な感覚ではある。しかし、それはA社という組織固有の話です。

当該組織が永遠に続くのであれば、そのノウハウ、スキルは価値を持ち続けますが、

今みたいにしょっちゅう組織が潰れたり、再編されたりしている状況においては、けっこう微妙なスキルと言えるでしょう。

で、皆そのことをよく知っているからこそ、合併や買収されるのを嫌うのです。日本の大会社の再編がなかなか進まない理由はここにあります。

 

 

東浩紀

 

-国家が保障する「文化的生活」というのは、ある程度画一的でつまらないものにならざるを得ないしそれでよいと思います。

言い換えれば、民間に委ねた結果、ある文化が滅びることがあったとしても、それはやむを得ないと思って受け入れる。

そもそも、先端的なアートや音楽、あるいはサブカルチャーでもいいですが、国がそういったものを支援するというのは無理があります。

それらはマイナーなんだから、国民の納得を得にくい。国民が公に求めているものというのは、あくまでも価値中立的なものです。

誰もが納得するものへの投資しか国民のコンセンサスは取れないので、

「すごくとんがった才能を持った人がいて、そいつに投資しておくと日本の未来が開ける」みたいな考え方は、もう通用しないと考えた方がいいでしょう。

 

古典芸能は違う論理で保護できます。なぜならそれらは、近代国家が誕生する以前から存在していたからです。

ただ、それとは逆に、例えばバレエのようなヨーロッパから輸入された文化は、たとえ歴史があるものであっても、日本の文化行政で守ることは難しいでしょう。

バレエでなくて文学でも美術でも音楽でもいいのだけど、明治時代に日本が近代国家になろうとした時、つまりヨーロッパに追いつけ追い越せとやっていた中で、

トータル·パッケージとして入ってきた「芸術」がこの国にはたくさんある。

じつは大学や美術館の制度もそうです。かってこうした外国文化は、「これを取り入れたら、俺たちの国力は上がる」という理由で支持されていたわけで、

ゆえに国家予算で支援することが許されていた。けれども今はその前提が壊れていますからね。

「なんで他の国の、由来のよく分からないものにお金を払わなければいけないわけ?」となっている。そしてそれに反論するのはなかなか難しい。

べつに日本だけでなく世界的なトレンド。

 

 

-すでに僕たちの世界は、ネットの導入によって、国民の世論が常に可視化される時代に突入しています。

情報の非対称性があったから「エリート」が大衆を導けましたが、皆が同じ情報発信力を持っていたら、大衆が勝つに決まっている。

圧倒的に数が多いわけですから。そうなると、なかなか新しい未知のものへの投資に首肯させるのは難しい。

僕はそうした前提で今の世界を見ているので、今後21世紀の公僕は何をするかといったら、大衆に仕えるべきだと答えるしかないし、

実際それは民主主義の原則でもあるわけです。つまり、今の時代、「エリート」はもう面白いことや尖ったことはできないんですよ。

大衆の欲望に奉仕することしかできない。官僚には、その限界を理解していただきたい。

 

-今の生きづらさの大きな原因に、「ツイてる」「ツイてない」ということに対してものすごく神経質になっていることが挙げられると思います。

みんなが公正さを望み過ぎなのです。誰しもが「正しく努力したら正しく成功するべきだ、報われるべきだ」と思っている。

実際、政策レベルでもそうしたことが言われていたりする。そうした社会を目指すのは美しいことですが、でも基本的に世の中は不公正にできている。

これはべつに政治腐敗とか拝金主義とかの話ではなくて、誰でも交通事故に遭ったり、病気になったりする可能性があり、

そうしたトラブルというのはまさに確率的に降ってくる。事前にどうこうすることはできません。

それと同じで、努力したからといって見返,りが必ずあるわけではないし、やはりどうしても運·不運が出てくる。

同じスタートポイントで、同じくらいの能力を持っている人間の生涯年収が、大きく開くことはあるわけです。

 

それに対して一定の「諦め」の感覚が共有されないと、すごく窮屈な社会になってしまう。

日本人は、結果平等を求めながら、他方で「自由な競争」も求めているところがある。だったら前者は諦めようよ、と僕なんかは思うのですが。

 

 

-国が主導して国民の価値観を変えることはできないと思います。国家は国民が考えていることしかできない。

よく「みんなが輝ける社会を」とか言いますが、実際にはそんなものは存在しない。だれかが輝けば、必ずだれかは輝かない。

そのとき国は、輝かないひとを支援することに注力すべきだと思います。というか、それしか国民のコンセンサスは得られない。つまらない結論だけど。

シルバー民主主義の弊害について、カットして若者に付け変えるということが可能であれぱ、それは僕だってそれがいいと思いますよ。

でも、それをどうやって実現するのかという部分については、は答えは出ていないし、おそらく出しようがない。

例えばこのレポートがネットで出て、多くの若い人たちが「いいね!」をたくさんクリックしてくれたかもしれませんが、それが何か政治的な力になるか?